澪が眺めているのは、この世界では極々当たり前の日常らしい。
どこにいたのかというくらい多くの人々が、それぞれ自分に出来ることをやっている。
穏やかな春の日差しの下、血生臭い狂宴の後片付けが着々と進んでいく。
破壊された家の残骸を片付け始める少年達。鋭い爪に抉られた若い兵士の傷に涙を浮かべながら、それでもその出血を止めようとする少女。
夫婦なのだろう、互いの無事を喜び合う男女。幼い我が子の怪我に狼狽する両親。
瓦礫の下から助け出された老夫婦。放心したように座り込む女性の目の前で瓦礫を掘り返す青年。
それでもあちこちで歓声が上がる。
石畳の道から血の跡が流されていく。空気に残る錆びついた血の匂いは薄まらない。

雑踏の隅にしゃがみ込んで、目の前を流れる人並みを眺める。
何をしたらいいのか、分からない。なぜここにいるのかすら、分からないのだ。
分からない事が情けなくて、やるせなくて、緩い日の光で全身の力が流れ出ていくようだ。使い方も分からない、そんな力なら。このまま大気に解けてしまえば良いのに。
片膝を抱えて座り込む。額にかかる細く硬い髪を指に絡ませて目を閉じると、能面のように無表情になった。
呼吸をするたびに、胸の中が血で染まっていくように感じる。


「……ぶ?だいじょうぶ?」
すぐそばで聞こえた幼い少年の声に我に返る。目を開けると明るい太陽の光に貫かれそうだった。
「きぶん悪いの?きゅうごしょ行く?動けないの?」
髪の間からのぞく楕円形の耳が頬の辺りまで垂れ下がっている。大きく黒目がちな漆黒の瞳。紺色の瞳孔は澄み切っていて吸い込まれそうなほどだ。髪や耳と同じ茶色の尻尾が心配そうに地面を掃いている。小さな身体は華奢で、それでもしなやかな印象を与えた。
「……大丈夫だ」
タレ気味の目を強調するように茶色の眉を八の字にしてオロオロする少年に言ってやると、少し安心したような顔をして澪の隣に脚を投げ出して座り込んだ。
「今日は、町の中まで魔物が入り込んできたから……血の匂いがきついね」
澪と同じように雑踏に目を向けながら少年は独り言のように呟いた。
その雑踏の向こうから囃し声と共に大きな声が聞こえた。
「……れるって!わかったからっ風呂入るから池はイヤだっ!!」
「若様だっ。戦闘の後はいつもだね」
クスクス笑いながら少年は声のする方へ目を向ける。つられるように澪もそっちを見ると、周りの人より頭一つ分大きいカサンドラの返り血にまだらに紅く染まった白銀の髪が見えた。
「……これが、日常……」
呟くような澪の言葉を、少年は聞いていたらしい。
「……そうだよ。この日常を守る為に、戦ってるんだ」
最初の印象より遙かに大人びた、犬の獣人の少年がそこにいた。

「――――……そうか」
何故だか居た堪れなくなって、澪は視線を落とした。濃紺の髪が表情を隠す。
そんな澪に慌てたかのように少年が明るく声を出す。
「うん、信じてるから!いつかもっと平和になって、魔物なんてこなくなるって。だから頑張れるんだよ」
誘われるように顔を上げる。こんな状況でも人を気遣うことが出来る。本当に強い、いい子だ。
そうして今の言葉に嘘偽りはないのだろう。少年はこんなにも平和を願い、信じている。
「……ああ、きっとそんな日が来るよ」
少なくともそう祈ろう、と心から澪は思った。
その声にぴくり、と小さく耳を動かした少年は嬉しそうに破顔し、体重を感じさせない軽やかな動きで立ち上がった。
「さてっと!そろそろいかなくっちゃ。またお話してね!」
たたたと駆け出しながら、澪に手を振る。
そんな少年にぎこちなく手を振りかえし、自分もそろそろ戻ろうかと立ち上がると小さく伸びをした。
気づけば、もう血の匂いがあまり気にならない。
あの少年にお礼を言うべきだったなと今更に気づく。せめて名前だけでも聞いておくのだったと後悔しながら、町並に背を向けた。
少年が走り去った道を、優しい風が撫ぜている。


砦の中をあてがわれた部屋に向かって早足で歩いていると、割れた窓の前で思案する琴菜の姿が見えた。
洗い立ての髪はしっかりと水分を切られ、それでも何時もより深い色をたたえている。服をぬらさないようにと肩にはタオルがかけられていた。
「何してるんだ?」
澪が静かに声をかける。琴菜は目線を窓に固定したままだ。
砕け散ったガラスは片付けられているものの、窓には未だ大きな穴が開いている。
「この窓、なんとかしたいなと思って……自分が何も出来ないのが……来たばかりなのだからしょうがないんだけれど、なんだか情けなくてな」
なんとなく拗ねたような表情の琴菜に、澪が思わず吹き出しそうになる。
「なんだ?」
琴菜が訝しげに尋ねた。
「いや、なんでもない。どうしたらいいか聞いてみよう。答えてもらえなかったりしたら、勝手に布でもはっておいてやれ」
不安を感じていたのが自分だけでなかったことにほっとする。琴菜もそれを感じたのではないだろうか。
先程より明らかに穏やかになった澪の表情に、琴菜も頬を緩める。
「そうだな、やれることから勝手にやってしまうか」




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